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【読書メモ】教育という病 教育現場は病に犯されている

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この本を読みました。

教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)

教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)

 

 

著者は名古屋大学の准教授の方で、普段より学校が抱えるリスクについて情報を発信しておられます。金髪がものすごく印象的な方です。

内田良の記事一覧 - 個人 - Yahoo!ニュース

 

発売されてからかなり売れているようなので、読んでみました。読書メモです。

 

この本の要約

本の方針

教育に関する問題を指摘した本は、ほとんどが著者の経験に基づき、進められることが多いです。もちろん、そういった独自の経験も読んでいて参考になるのですが、明確なデータがないため、決定的に訴えてくるものがなかったりします。

教育界は長らく、「学校安全」あるいは「子供の安全」の取り組みに力を注いできた。そのこと自体は正しかったのだが、そこにはエビデンスが不在だった。なんとなく危険かもしれないが、とくにエビデンスによる検証もなく、漠然と「安全」が語られ実践されてきた。具体的な事故件数を調べたり、事故事例を検討したりという、科学的な手続きがとられてこなかったのである。

(太字は僕が勝手につけています。)

この本では上にも引用したように、とにかく集められるデータを可能な限り集め、客観視しづらい教育に関して地道にデータを集め、明確なエビデンスを提示します。

教育というものが論じられるとき、そこに「子どものため」という接頭語をつけることによって何でもかんでも「善きもの」に変わってしまうことがあります。それによって肥大化したリスクがすぐ近くまでせまっている。一貫してそんな論調で書かれています。

 

具体的に述べられているリスクは大まかに

  1. 巨大化する組体操に関するリスク
  2. 2分の1成人式に関するリスク
  3. 部活における「体罰」「事故」のリスク
  4. 部活動顧問の負荷に関するリスク

といったものです。

 

 子どものための企画が、親へのショーとなしている

この本の中でもしきりに出てくるのが、教師はいったい誰のために存在しているのかという部分。こういった質問には当然全ての人が「子どものため」と言いますが、実際の現場では親への見世物のために行っていることがあります。

 

例えば上で書いた「巨大化する組体操」。

 

組体操というと、多くの運動会で取り上げられ、かなりの体育の授業を割き、学年全体の協力によって出来上がります。その組み上がっていく様子は圧巻で、土台の人はどのような様子になっているのかも見ることなく、仲間を支えるために長時間砂ぼこりの中耐え続けます。

上に乗る人はそんな仲間の力を借り、信じ、一番上までのぼる。見ている人は、子どもたちが実際に練習をしている様子を見ているわけではないけれど、子どもたちがどれくらい苦しみ、どれほどの絆が生まれたのかを感じ取り、我が子がどれくらい成長できたのかを確かめます。

 

 

この「善きもの」として扱われている組体操に対し、著者はデータや事例でメスを入れていきます。

詳しく書くと長くなるので簡単にしますが、ざっと書かれている組体操のリスクはこんな感じ。

  • 小学校の体育的活動の中で、組体操は負傷事故件数で3位。かつ学習指導要領での必須ではない(全ての学校で行われているわけではない)。(ちなみに負傷が多いイメージのマット運動は4位)
  • 負傷事故件数の中で圧倒的に頭部の負傷割合が高い
  • 11段ものピラミッドになると、一番下の中央の人には4人分以上の体重を支える必要がある。

といったところです。実際に起こっている事故を見ても、組体操は事故の規模が大きく。負傷ではなく傷害(完治しない)の事例も多いと言います。

 

ここで筆者が特に言いたいのは、「怪我や傷害が多い」ということではありません。

組体操問題の特徴は、リスクへの関心が著しく低く、他方で組体操がまったくもってポジティブな活動として認識されている点である。「感動」「一体感」「達成感」といった眩い教育目標によって、他のことが何も見えなくなってしまっており、「組体操はよいもの」と素朴に信じられていることが、大きな問題である

(太文字は勝手につけてます)

つまり組体操が問題というよりは、組体操という子どもにとって傷害を持つかもしれないような多大なるリスクを持つものが、さも「善きもの」として世間に認知され、リスクには気付かぬふりをして教員や保護者が「感動・涙」を求め、依存してしまっているということです。

こういった「感動」が、リスクの直視を難しくすると筆者は言います。

 

中学校では最高10段。高校では最高11段。頂上の子は建物の3階の高さに、命綱なしで登ります。こういった危険なことを見せ物として、学校のホームページ、SNSやユーチューブなどに公開されています。

 

「子どものことが第一」ということを前面に打ち出すことで正当化した上で、結果的に「学校のショー」と化してしまっているのです。「善きものの脅迫から逃れられない生徒」といった表現は心に残ります。

 

こういった「ショー化した教育現場」に関して、2分の1成人式に関しても書かれています。(長くなりそうなので割愛します)

 

部活動に関する過重負担

部活動による教員の過重負荷に関してはいろんなところで言われていて、特に有名なブログが「公立中学校 部活動の顧問制度は絶対に違法だ!!」です。

このブログでは一貫して部活動の顧問制度に反対しているもので、一つの記事に1000件ものコメントがつくこともよくあり、全部は読めませんが参考になります。

 

部活動は現行の学習指導要領には「生徒の自主的、自発的参加により行われる」もので、生徒達が勝手にやっていてそれを教員がボランティアで見ています。

 

この章の中で個人的に面白いなと思ったデータが2つありました。

  1. 世界34カ国の教員に行ったデータによると、一週間の教員の勤務時間は、その中で最長(1位/34)の53.9時間でありながら、その中で授業に費やす時間を見ると、なんと29位と寧ろ下から数えたほうが早いこと。
  2. 「運動部部活の顧問教員の負荷が大きすぎる」という問いに対して、「そう思う」と答えた割合は、教員は65%に対して保護者は15%しかない。

(細かい参加国がどうかなどは実際に本で見て確認していただきたいです)

というものです。

2つめのデータから、特段、「保護者の理解が足りない」とかを言うわけではありませんが、教員と保護者に認識のギャップが大きくあることは明らかです。

またそのギャップの理由を「教員があまちゃんだから」というのも、1つめのデータを見ると言うことはできません。

 

日本の教員は明らかに時間のほとんどを部活動に力が注がれ、本職である授業に対しての準備は、寧ろお粗末にされています。

 

また

  • 教員も生徒も、本音を言えば部活動はもっと減らして欲しい

という奇妙なデータもあります(ちょっと語弊があるかもしれませんが)。「じゃあ何で部活動なんてやるんだ??」と純粋に疑問を持ちます。とても要約しづらいのですが、この本では特にこの部分が当てはまりそうです。

なぜこうも多くの先生たちが、大きな負担を感じながらも部活動を続けるのか。

その回答こそが、まさに「善きものだから」である。部活動というのは、教育の一環として重要な活動にある。子どもの育成にとって「善きもの」を放棄するとはいかがなものかという空気が教育の現場にはある。 

 この部分だけ読むと「ホントかよ(´Д` )」と言いたくなるけれど、この文章の前には、部活動をやめたいという教員を悪く言うような例が述べられています。

 

上に書いたことまでをつなげるとこうなると思います。

部活動は本音を言えば生徒も先生もやめたい(減らしたい)。だけども部活動の教育的効果は大きく、世間的にも「善きもの」として認知されている。「部活顧問をやめたい」と言えば、部活動をさも当然のようにやっている(割合としてはかなり多い)教員から白い目を向けられる。だからしょうがなくやっている(自分で自分たちの首を絞めている)。

 

著者の言い方で言えば、

「善きもの」の脅迫から逃れられないのは、生徒だけではない。 教員もまた、まさに教員という立場であるがゆえに、教育という「善きもの」から逃れることができない。

 というところす。

 

まとめ

教育というのは、「善きもの」として認知され、「善きもの」でなければいけないという責任みたいなものがあります。ただそれがあまりにも重視されるがあまり、本来の教育の目的である「子ども」が忘れさられ、また子どもだけでなく、教員自身が自滅してしまうようなリスクを招いている。

まさに「教育という病」に犯されているような感覚に、読んでいてなりました。

 

最初にいったようにこの本の特徴は、多くのデータに裏づけられながら展開が進んでいきます。名著であることは間違いないので、ぜひ読んでみてください。

 

教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)

教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)

 

 こっちも多くのデータに基づいた本で面白いです。 

「学力」の経済学

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